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【本社】沖縄の記憶

靖国→長崎→広島→鹿児島と続いた8月の鎮魂の旅。

5年目の今年は沖縄へ。

旧海軍司令部壕です。ここで南方の激戦における様々な指令が出されました。

幕僚室。この壁に残る無数の穴。幕僚がここで手榴弾を抱いて自決。そのときの破片が付けた痕が今なお生々しく残っています。嘉手納基地には頻繁に米軍機の離着陸がありました。驚いたのは着陸の際の音があまりに小さいこと。まったく音の聞こえない中から突如滑走路に飛行機が着陸します。このように隣には普通に生活が広がっています。

嘉数高台公園の「トーチカ」です。沖縄戦の最重要地となったこの丘の攻防をめぐり、数千人が亡くなっています。このトーチカに身をひそめ、穴から銃器で攻撃を仕掛けました。今では公園となったこの丘は、普天間飛行場を一望できます。嘉手納との大きな違いを感じたのは、嘉手納は近くの商店でTシャツやマグカップなどの土産を売っているのに対し、普天間はまったく気配を感じませんでした。宜野湾市民の普天間基地不要の怒りでしょうか。

普天間飛行場に配備されたオスプレイ。明らかに住宅街の隣です。

ひめゆりの塔の前にある「ガマ」です。奥の資料館の中には実物大のガマの模型があります。想像以上に深く、広く、暗いです。6月19日、ここにいた約100名のうち80人余りが米軍のガス弾を受けて亡くなりました。喜屋武岬(きゃんみさき)です。ひめゆり学徒隊の少女たちはここから次々に身を投げました。写真では分かりづらいですが、とても高い崖になっています。太平洋戦争で唯一「地上戦」となった沖縄。先述の海軍司令壕 太田司令官が海軍次官へ送った電報(一部編成)。

「沖縄県民の実情は県知事より報告されるべきですが、県はすでに通信の力ないと思われますので、私は県知事に頼まれたわけではありませんが、現状を見過ごすことが出来ず、変わって緊急にお知らせします。沖縄の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民をかえりみる余裕もありませんでした。しかし県民は男はみな戦闘に駆り出され、残った老人、子供、女性は相次ぐ砲撃で家や財産を焼かれ、小さな防空壕で、砲爆撃と雨風にさらされ、貧しい生活に甘んじてきました。しかも若い女性は進んで軍に身を捧げ、親子生き別れを覚悟で軍に娘を預ける親もいました。陸海軍が沖縄に来て以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公するという一念を胸に抱きながら、ついに報われることなくこの戦闘の最後を迎えてしまいました。沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月をいっぱい支えるだけです。沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して、後世特別のご配慮をしてくださいますように。」

このあと太田司令官は自決しました。