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沖縄の空に

長崎・広島・知覧(鹿児島)と、毎年春先からみんなで折った千羽鶴を直接届けて参りました。

今年はひめゆりの塔(沖縄)に、寝屋川のみんなで折った鶴を届けてきました(上に赤い大きな鶴が付いているのが目印)。

写真は塔の前の「ガマ」です。この穴でも多くの人が犠牲になりました。

沖縄平和祈念資料館にて、全ての閲覧が終わり廊下を抜けると、突然真っ青な空と海が開けた空間が広がります。

太平洋だかフィリピン海だか、当時の人々もこの美しい景色の中

戦い、傷つき、悲しみに暮れていたのですね・・・。

 

ここはちょうど沖縄本島の南北の真ん中にあたる残波岬。

この東海岸から上陸した米兵は、一気に西海岸までを制圧し、沖縄を南北に分断。

そこを拠点に北上して島の半分を制圧。

日本軍は、本土決戦への時間稼ぎのために南側へ戦力を集中させ、持久戦とするも間もなく南も制圧され、沖縄は壊滅。

壮絶な沖縄戦の最後は、日本本土への攻撃を遅らせるための単なる時間稼ぎと言われている・・・。

 

名護市の海岸を走っていると、海中から砂を揚げている地区を通った。そこには辺野古へ土砂を運ぶであろうダンプカーが数十台道路の一車線を塞いで順番を待っていた。そして「辺野古移設反対」のプラカードを持った人が、出入りするダンプカーに訴えていた。

普天間と嘉手納に挟まれるように位置するアメリカンビレッジは、アジアからの観光客で溢れていた。

明治時代まで琉球王国の流れを維持していたからか、「鉄の暴風(※)」と形容されるあれだけの戦火に見舞われながら、広島・長崎・知覧に比べ、「激戦の地」の色よりも「古き良き琉球文化が息づく街」としての印象が強い。

しかし、沖縄の土地には多くの血が染み込み、今なお危険と隣り合わせにあることは間違いない。私たちは沖縄と聞くと、南国・リゾート・ダイビング・ショッピングなどのイメージが沸くし、旅行会社のパンフレットも心躍るエンターテインメントが並んでいる。でもわずか70年前に、この空と海と大地が真っ赤に染まったという史実を忘れないようにしたい。

なお、門真のみなさまの千羽鶴は知覧に、長居公園のみなさまの千羽鶴は長崎と広島に向けてそれぞれ贈られます。

(※)鉄の暴風:3カ月に及び地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われた。使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が降り注いだ。